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3 30, 2004

国民よりも憲法を守る方が大事

このショッキングな題名は、昨夜テレビ朝日で放送された「TVタックル」と言う番組の中で、(経済学者)経済評論家の森永卓郎氏が発したもの。

「日本は憲法9条と言う非常に美しい条文を守ってきたんですよ。
 仮に、仮にですよ、とんでもない奴が攻めてきたら、戦わずに潔く、黙って殺されれば良いじゃないですか!」
「そしたらああ、そういう立派な民族がいたなと思い出してもらえるじゃないですか」


彼は護憲派でありますが、ものすごい思考回路ですな。
護憲派とは、国民が犠牲になっても、9条だけは守るべき存在だと思っているのでしょうか、こうなれば、一種の宗教ですな。


おそらく、護憲派の社民党も同じような思想なのでしょう。
なぜなら、憲法9条「戦争はしない、戦力は持たない」を何としても守ろう、貫き通そうとすれば、必然的に「もしも」の時は、国民の犠牲もやむ無しと言う立場にならざるを得ないから。
そういう意味では、自衛隊の存在を違憲だと考える(最近は、違憲だが存在は認めるといったソフト路線になったが)共産党もまた、最終的には、国民よりも憲法、憲法を守るためなら自国民も犠牲になるべき、と言った立場になるのだろう。


もはや、憲法9条は変えなければならないのは明白である。
今のような、憲法解釈で「特措法」などで場当たり的な態度でごまかすのは、いい加減に終わらなければならない。

(※2004年3月31日 修正 → 森永卓郎氏は経済学者ではなく、単なる経済評論家でした)

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3 26, 2004

別れはやはり寂しいものだ

本日の放送を持って、テレビ朝日の看板報道番組だった「ニュースステーション」が終わる。

基本的には、朝日新聞系べったり姿勢であり、偏った番組内容は嫌いだったが、さすがに18年という長い年月には、バブル期の入社で、私の社会人人生とともに歩んできた番組だっただけに、感慨深いものもあります。

ニュースステーションで、一番記憶に残っているのは、やはり2001年9月11日のアメリカ貿易センタービルへのテロ事件ですね。
あれは、放送時間帯の関係で、リアルタイムで発生した事件でした。
最初、「アメリカから衝撃的な映像が入って来ました」との報道で、センタービルが黒煙をあげている映像がテレビに映った。
これは、打ち合わせに無い予定外の緊急ニュース映像だと言うことは、久米氏をはじめ、その場にいたアナウンサーやコメンテーターの態度でもわかった。
最初、飛行機がぶつかってしまったようだ、詳しいことはわからない、事故か事件かもまだわからないし、死傷者も不明です、と言う報道でしたが、2機目が衝突する映像が写された時点で、初めて誰もが「テロ!」と言う衝撃、認識を持ち、その後テレビから離れなくなった。


ニュースステーションと言う番組は、それまでのニュース報道のあり方をガラリと変えた、視聴者にわかり易く、興味を持たせてくれる切り口で、ニュースとは別の報道と言う側面を、視聴者に伝えた部分で、画期的な番組であった。
特に、事実のみのニュース報道では伝えきれない、「その後」も報道特集として取材を続け、視聴者に伝えたこと。
例えば、95年1月17日の阪神大震災では、数週間に渡っていろんな角度(火災の酷かった長田、倒壊の激しかった東灘、交通が分断され陸の孤島だった灘など)で伝えてくれた。

しかし同時に、自民党の安倍幹事長も同様の事を言っているが、ニュースの解説部分と、実際のニュースがごっちゃになり、意図的かどうかは別として、結果として事実が本来とは意図されない別の事実に変わってゆくという側面もあった。
私の場合、これが特に鼻について嫌いになったわけですが、例えば朝日新聞系列でよく見られる、中韓側に偏った立場での報道を指し、実際のニュースにいろんな解説を付ける上で、自分たちの思想に沿った内容を、意図的に編集して報道するため、そのニュースを通じて世論をある方向に捻じ曲げる結果になったことですねぇ。

ただ、この番組が開始されたころは、まだまともな部分が多かったような記憶があるのだが。

例えば、裁判問題にまで発展した所沢ダイオキシン問題では、結果的に報道の方法に若干の問題があったものの、私は所沢農家ではなく、この問題では当初からニュースステーション側を支持をしていた。
なぜなら、野菜からは高濃度のダイオキシンが発見されたと言うのは「ウソ」だったが、茶葉からは実際に検出されており、周囲は高濃度のダイオキシンが存在する環境であったことは事実であったし、問題はあくまでも杜撰な管理をしていた産廃所であり、放置していた行政の問題であったからだ。
事実、あの報道のあと、埼玉県はあの場所の産廃所は潰したそうだ。
あの報道が無ければ、検出はされていないが、高濃度ダイオキシンの環境で作られた野菜を、国民が食べ続けていた可能性もあったわけで、報道番組の役目の1つは、ニュースステーションは立派に果たしたと、今でも評価している。


そういった、数々の歴史とともにニュースステーションは流れ、私も社会人として生活をし、いろんな知識、情報を貰ったし、反対に意見をぶつけたりもした。
そのような番組が、今日で終わる・・・まさしくこれが人間の性なんでしょうね、好きではなくなった番組だけど、無くなると言う事実の前には、寂しく感じるものです。

長い間、ご苦労様でした。>ニュースステーション、スタッフ、関係者一同様。

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3 16, 2004

高橋に変わる選手はいない

ご存知、アテネ五輪の女子マラソンで、日本のエース高橋尚子選手が代表から外れてしまいました。
ニュースソースをリンクしなくとも、全国ニュースだったのでよく知っていますよね。


さて、最初に断っておきますと、選考会で野口(世界選手権2位)、坂本(大阪国際優勝)、土佐(名古屋国際優勝)の3名を選んだことは、正しかったと思います。あくまでも、今回の選考会での話ですが。

しかし、高橋尚子選手を代表に選ばなかった・・・いや、選べなかった点で、日本陸上競技連盟が間違っていると思います。


まあ冷静に見れば、今回の選考会では、そもそも最初から誰を選んだとしても、国民が不満を持ち、陸連が非難を浴びる事は目に見えていましたね。

高橋選手を選んでいれば、誰が落ちたにせよ、「選考会レース」で高記録を残した選手を落とす矛盾、選考レースの存在意義が無くなり、それこそ選考基準に非難が集中したでしょう。

かと言って、改めて言うまでもなく、高橋選手を落とせば、今の世間の状態です。
ただまあ、個人的には思ったよりは、国民は冷静に受け止めている印象はありますけどね。(これは、偏に高橋尚子さんが会見を行い、丁寧に大人の対応を行った事も大きいと思うけどね。)

結局、誰を選ぼうとも各界に不満や失望、批判が出る状態にしたのは、陸連ですよね。
これを回避するには、あくまでも私見ですが、高橋尚子選手を東京国際が終わった時点で、タイムは不満だけど過去からの実績で、特例として決定(シード)すべきだったのです。

高橋を落とせば、当然のことながら3人には、高橋の代わりとして日本国民の期待と声援を受けて、走らねばなりません。彼女たちに、高橋尚子の代わりが務まるでしょうか、ただマラソンが早いと言うだけなら、十分に務まるでしょうが。

現在92年バルセロナでは有森裕子が銀、96年アトランタでは同じく有森裕子が銅、そして2000年シドニーでは高橋尚子が金と、三大会連続のメダルを取っており、当然国民はメダルを期待しているし、早い話、高橋尚子ならメダルに一番近い、そう思っているわけで、その世界記録も作った彼女の代わりとして走ると見られるわけで、選ばれた選手も、高橋がいないだけで、ものすごいプレッシャーでしょう。
おまけに、もし、彼女たちがメダルを逃そうものなら、一斉に「高橋が出ていたら」と言う大合唱が起きます。このとき、彼女たちはその非難にどう耐えるのでしょうか。

高橋尚子が、過去の人で現在は選ぶに値しない実力に落ちていた、と言うのであれば話は違ってきますが、実績は世界トップクラス、日本女子で始めて陸上競技五輪優勝、その後も日本、アジア、世界記録など数々の記録を更新し、5年間で国際大会で6度の優勝(6連勝)。東京国際でも、選考されることより、「記録」に拘ったために、ペース配分を失敗した2位。
もう、彼女は国内では単なる選手ではなく、彼女に対する国民の期待、勝利への重圧、そして女王としての存在、全てを持つ選手以上の存在だと思っています。 これら全て比肩できる選手が国内にはいるのでしょうか、いるはずがありません、高橋を選ぶべきだったのです、いや選ぶしか無かったはずです。選べば、残りの代表2選手も、気分はだいぶ違ったでしょうね。

選ぶべき時期に選ばずに、残りのレースで凡庸なタイムであれば選べるとか、そんな消極的で特例を設けることへの批判を恐れての責任回避の姿勢で、混乱を招いた陸連の責任は大きいと思いますね。
その結果、誰を選んでも批判が起きる選考会になり、結局は陸連は自分たちのメンツと組織を守るために、高橋尚子という国民栄誉賞をもらった大選手をも、簡単に切り捨てて自分たちの責任回避のための道具にしてしまう。
選手は、陸連の権威付けのための商品でも何でもない。
高橋を選んでも非難の嵐で、外しても選考は正しくとも、選手にも棘の道であり、今回の選考では結局は、選ばれても、落とされても、その選手たちが一番の被害者であることには違いない。


選手の選考に絡んでは、毎回もめる陸連だが、組織も大きくなれば腐敗し、身動きが取れないんだろう、全く情けない限りだ。

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3 10, 2004

国歌斉唱の拒否

今日は、国歌のことです。

日の丸・君が代強制やめて 京の市民団体が教委に申し入れ
 市民団体「『心の教育』はいらない!市民会議」などはこのほど、公立学校の卒業式や入学式で、日の丸への敬礼や君が代斉唱を子どもや先生、保護者に強制しないように京都府教委と京都市教委に申し入れた。

 申し入れ書は「日の丸と君が代については多様な意見がある」とした上で、歌わない権利があることを学校で伝えることや、式典の画一的な統制をやめることなど6点を求めている。
(3月9日 京都新聞)


ここには日の丸も入っていますが、時間的な都合もあって、一応、君が代に重点を置いてみます。

よく、教職員がこの手の式典(入学、卒業など)での国旗掲揚、国歌斉唱に対して拒否する話が聞かれます。

東京都では、そういった式典での国歌斉唱について、指導を強化して、校長の命令に従わない教職員は処分する方針を決め、都立学校の全校長と区市町村教委に通達しています。

また一方で、入学式に「君が代」を斉唱する際、「思想信条に照らして出来ない」と伴奏を拒否した小学校女性教諭に、東京都が戒告処分を行った件で、この教諭が処分取り消しを求めた裁判で、東京地裁では適法と判断した事件もありました。

このように、教育現場では国歌や国旗に対する、教職員の感情が、いろんな問題を起きています、広島では校長が自殺したのも、確かこの国旗・国歌が関係していたような。


さて、このような場合に、教師側から聞かれる意見、「強制的に君が代を歌わせるのは、思想の自由に反する憲法違反」、「教育現場、生徒に対する、君が代の押し付け」などあります。
あと、上記記事によれば「歌わない権利があることを学校で教える」、「式典の画一的な統制をやめる」などですか。


私は教育現場に、教師が「個人の思想の自由」を持ち出し、独自の判断で勝手に教育内容を拒否して良いのだろうか、という疑問を持っております。

教師も人間ですから、個人の思想、信条をそれぞれ持っている事、それ自身には、問題があると思いません。
しかし、教育現場に個人の信条など持ち出すことがマズイ、そう思うのです。
この個人信条の解釈を広げてしまうと、教師の都合(好き嫌い)で教えるもの、教えないものが出てきたりしますよね。
事実を隠して、教師の思想で極左派へ、または極右派へと教育を行っても正当化されてしまい、何のための教育庁なのか、何のための学習指導要領なのかわからなくなります。

私は、日本国民として、日本国家に対して、また日本国を象徴する自国の国旗、国歌に対して敬意を抱かせる教育は大事だと思う。
自国に対する敬意を持てない、また、持つことを否定するような教育を受けさせられた子供達が、他国を理解したり敬意を払ったりできるとは到底思えないです。

諸外国では、自国の国旗・国歌に対する尊敬の念は、非常に高いもので、それを理解できない日本人が、外国でのセレモニーで、国歌斉唱時に、観衆が起立している中、日本人だけが座ったままで、隣人とおしゃべりをして、顰蹙を買うなどの恥ずかしい行為を行っているのでしょう。
自国の国旗・国歌に敬意を持てない者が、他国民がその自国の国旗・国歌に対して、また、その敬意を表す人たちの気持ちに対し、敬意を持てるはずがありません。

君が代を強制的に歌わせる・・・学習させているだけと考えられます。一般民衆にまで強制させるのであれば、それは大問題ですが、学習指導要領に基づいて、教育する・される必要があるときにだけ、斉唱の指導や教育が強制されるものは、問題ないと考えます。
これは国歌にかかわらず、授業全般に言えることで、そもそも教育現場での学習とは、強制的な部分が必ず存在し、それは、強制だからと拒否するレベルの話ではない、例えば、三角関数は嫌いだから、個人の信条で教育はしない、などの理由が通じないのと、同じ理屈だと思っています。

歌わない権利があること・・・つまり憲法で保護されている権利を教える、と言うわけですね。 でも、憲法の内容や、その精神に関しては、別の授業でも教えられるものですよね。
そもそも権利とは、無条件に行使できるものではない、という当たり前の社会理念も、当然授業では必要でしょう。
さらに、憲法には他にもいろんな権利が謳われており、何も国歌斉唱を使ってではなく、日本国憲法をきちんと教える事のほうがよほど大事ですよね。


また、教師である以上、国や自治体=納税している国民、市民に雇われている立場であることも忘れてはいけないのではないでしょうか。
学習指導要綱に従った教育は、教師になる前に約束された決まりごとであり、その学習指導要綱が間違っている、と主張するのであれば、然るべき手続きを持って訴えて変えるべきであることは言うまでもなく、教える側の教師が、自分たちの都合で、約束を破って学習指導要綱に従わないのは、生徒に対しても示しがつかないと思うのですが。


日本国歌が「君が代」が嫌だ、という気持ち。
思想的に天皇がどうだ、太平洋戦争が何だ、といった意見には興味はないが、メロディや歌詞がイマイチだ、という感想には賛成だな。(笑)
でも、君が代を超える(上回る)国歌って、いまさら作れるんかいな。
(3月11日修正)

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3 04, 2004

小学生的感情論的反論

3月になったので正式に引越し

でも、時間もあまり取れないし、これぞと言う話題も無いけど、今回はこれだけ。


 ★ 韓国、日本の独島切手非難声明に対抗 ★

 韓国は日本が万国郵便連合(UPU)に独(トク)島切手発行を非難する声明を伝達したことに対する反駁声明を同じUPUに送り、会員国に回覧するよう対応措置を取ったことが伝えられた。

 28日、スイス・ベルンに位置するUPUによれば、日本は先月26日、「独島切手の発行はUPU憲章の前文、諸精神に反する」という内容の非難声明を受け付け、190カ国の会員国に回した。

 これに対し、韓国側は今月23日、UPUに伝達した声明で、歴史的証拠と地理学的事実、国際法の原則から見て、独島は明確に韓国領土であり、韓国政府は日本の領有権主張が韓国の主権に対する重大な違反であることを継続して強調してきたと明らかにした。

 チョソン・ドットコム(朝鮮日報)


竹島は、引越し前のブログでも主張したように、現時点ではあれは完全に日本の領土。
まあ、それはあくまでも私の見解ですけど、韓国には韓国の人の独自の主観、思い込んだ誤った見解があるのでしょうから、ここでは特に取り上げません。

ただし、上の朝鮮日報の記事に書かれているような真似だけは、見ている方が恥ずかしくなるので、辞めて欲しい。


>>日本は先月26日、「独島切手の発行はUPU憲章の前文、諸精神に反する」という内容の非難声明

韓国が竹島の切手を発売する事を決定した時、日本国政府が抗議した内容と同じですね。
国際的に解決していない領土問題(少なくても双方が自分の領土だと主張している)場所を、敢えて切手にして発行するのは、UPU憲章の精神に反すると、訴えたわけですな。
「竹島は日本の領土だ」とか「理由は何々だ」などと一言もありませんね。

それに対し、韓国は・・・
>>韓国側は今月23日、UPUに伝達した声明で、歴史的証拠と地理学的事実、国際法の原則から見て、独島は明確に韓国領土であり、韓国政府は日本の領有権主張が韓国の主権に対する重大な違反であることを継続して強調

UPUに「竹島は韓国の領土だ」と主張したんですね。
UPU憲章の精神に反する、と言う日本の主張に対する反論が、いつのまにか「竹島はウチの領土だってば」に変わってしまっている。
まあ、中学生でもこんなピントのずれた反論はしないでしょうな。
まるで小学生が、学校で喧嘩は良くないよ、と注意されたら、「○○くんが悪い」と責任転嫁している図と、なんら変わらない。 喧嘩がいけない、と言っているのに、関係ないことを持ち出して来るのは、小学生レベルということだ。 (※)


UPUってのは、万国郵便連合ですよね。
そのような組織に、国際法廷と勘違いしたかのような、竹島は自分の領土だと主張する、場違いな行為。
この島は自分の領土だと主張する、その行為そのものがトラブルの火種になりかねず、良好な国際協力関係を求める憲章精神に反していると言うことに気づかないってのは、あまりにも見ていて哀れです。


(※)
小学生の、喧嘩を例え話とすれば、少しヘンだな、突っ込まれるかもしんない。

授業中は騒がしくしてはいけない(UPUには国際紛争を持ち込むような行為をしてはいけない)、と言われているのに、僕の主張が正しいんだよ、○○くんの考えがおかしいんだよ、とトンチンカンな答えを返して、授業中に騒いだ事に対する反論だと思っているところが、小学生レベルということだ。

と言った方が、より近いか。

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